誤錯行試

隙あらば自分語りです

大学に通えない人間

現に私は休学していて、"これから" に自信を持てないでいる。希望より不安の方が強い。できるなら大学のことは考えたくない、とすら思う。

休学する前、してから1ヶ月の間、いろいろ考えていた。やっぱりこの判断は間違っていたのではないだろうか、周りが羨ましい、自分も早く、できるだけ早く元に戻らなければ、と。

でも、戻るべき"元"とは、一体何なのだろう。

話は少し変わる。昨年の12月ごろ、生まれてから一番と言えるほどの鬱の波が襲ってきた。無力感、無価値感、そして、そんなことを考えるまま年をとる恐怖。親も自分も加齢していく、何もできないまま、苦しい思いをしながら生き続けることが恐ろしくてたまらなかった。生きることへの絶望とはこういうことか、なんて思った。こんな思い、わかりたくなかったけどな。

なんとか波を乗り越えて年も越して、そしてこの数ヶ月で、色々な人に会った。皆世代も背景も異なり、生き方、物事の捉え方も様々だ。自らの悩みについて話し、またある時は打ち明けられた苦悩に共感したり、整理を手伝ったり・・・なんてことを繰り返しているうちに、焦る必要はないこと、自分は自分のペースで歩むのが一番精神的に良いと思い始めるようになった。しかし、そうでるのなら、今まで追い求めてきた理想や目標に、どう向き合うべきなのか。できる限りいい大学に入り、出て、できる限りいい企業に就職し、できる限りいいキャリアを築き・・・哀れで狭い考えかもしれないが、それが自分を成すと信じ込んでいた。それを覆された先にあるものは、何なのだろう。

そんなつべこべ言わずに大学に通えば良いのだろう。それなりに交友関係を築き、それなりに学業をこなしていけば、十分だ。それすらできない自分が嫌になるってだけだけど。

極端なことを言えば、生きていけるだけのお金をもらって自分の好きなことをやれているなら、それが一番いいのだろう。でもそんなに世間は優しくできていないし、お金はあった方がいいし、だから皆キャリアに自己投影せずに、別なところで趣味を見つけて生きがい欲を解消しているのだ。

いいキャリアを、成功する人生を掴むための切符のようなものなのかもしれない。学歴というものは。ほとんどの人はそれを欲しいと思うし、ゲットするために努力する。でも俺は、なぜか虚しくなってしまった。世間が悪いと言いたいのではなくて、たまたまこういう感情になるというわけだ。私の考え方、捉え方がひねくれすぎているのかもしれない。でも世の中との接触を一切絶つのは寂しくて、なんて自分の考えは面倒臭いのだろうと辟易する。別に辞めてまでやりたいことはない。どのルートを選択しても待っているのは諦めっぽくて、それが何よりも辛い。

私は大学が怖い。失敗をうまく処理できないから。完璧主義が悪化しそうだから。失敗体験が、通えなくなることでまたひとつ積み上げられるから。仲よさそうで本音なんて言えない友人に囲まれて、自分の脆さを少しでも露出すれば変な人扱いされそうだから。そして、また通えなくなった時、自分の精神状態が12月のような、限界に触れてしまうことが恐ろしい。

昨日、大学から保証人宛通知が届いた。復学届が同封されていた。どうせなら休学届も一緒に入れてくれ。